平成24年 2月5日(日) 主日礼拝メッセージ

「ファリサイ人と主にある家族」(マタイ12:22-50)

 主イエスの宣教において、対照的な人々がいる。それは、ファリサイ人などの宗教指導者たちと、
主イエスを信じる信仰による「神の家族」である。


 一.ファリサイ人たち―その拒絶的態度(12:22-45)


  1.ベルゼブル論議(12:22-32)悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を主イエスが癒したことにより、人々は主イエスこそメシア(救い主)ではないかと考えた。しかし、主イエスへの殺害の企図のあるファイサイ人(12:14)の反応は違っていた。主イエスが悪霊を追い出したのは悪霊の頭ベルゼブルによるのだ、と非難した(24)。これに対して、主イエスは次のように論駁を始めた(25-37)、「そんなことは、内部抗争であり、あり得ない」また、「ユダヤ人仲間で悪霊を追い出している者たち(使徒19:13)も悪霊によることになる」と(25-27)。主イエスは、実に、聖霊によって悪霊を追い出しているのであり、神の国(神の支配)が来た証拠である(28)。強盗でさえ、まず家の強い人を縛ってこそ、家財を奪うことをする。ましてや、主イエスは、人の内を支配する悪霊を追い出して、その人を救うのである(29)。主イエスは、サタンの領域を攻撃し、神の国という神の支配を拡大していた。この際、人々の対応が重要である。主イエスの味方となるか、敵となるか、である(30)。もし、人が、聖霊による働きを悪霊による働きと考えるなら、それは神に対する冒涜罪であり、赦されない(31-32)。 わたしたちも、わたしたちの心を悪霊の支配から解放して悔い改めに至らせる聖霊の働きを拒否するなら、神によって赦される機会を失い、永久に救われない。注意すべきである。


  2.木とその実(33-37) 実によって木がわかるように、どう語りどう行動しようと、それが正しいかどうかは後に結果でわかる。人の無益な言葉には、神の裁きがなされる。 それゆえ、わたしたちも、聖霊が示される罪を認めて神に対して悔い改め、主イエスの十字架による完全な赦しを信じ、神の支配を心の内にいただき、主イエスに従っていこう。


  3.しるしと論議(12:38-45) ファリサイ人たちは、さらに律法学者と共に、主イエスがメシアであることのしるし(奇跡)を要求した(?コリ1:22)。これに対して主イエスは語られた、「神への不信仰の時代は、しるしを求める。ヨナのしるし(ヨナ2-3章)のように、人の子の死と復活がしるしとなる」という(39-40)。これこそ、無二の福音のしるしである。ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改め、シバの女王はソロモンに謁見に来たが、ファイサイ人たちはメシアである主イエスに対して不信感を持つばかりである(41-42)。また、主イエスは、汚れた霊が出て休み場を求めて見つからずに帰って来て住みつく例を挙げた(43‐45)。ユダヤ人は、バビロン捕囚により偶像礼拝は止めたが、後にファイサイ的律法偶像礼拝が横行し、以前より悪い状態となったことを指摘したのであろう。 現代でも、悪霊を追い出されても、神による新しい支配をいただけなければ、その人の内面は空の状態であり、悪霊が以前より強力に押し入る危険な状態である。人は皆、主イエスを心の王座に、罪からの救い主・人生の主として、真に受け入れる必要がある(ヨハネ1:12)。

 二.主にある家族―神のうちにある祝福(12:46-50、詩編133編)  主イエスの母と兄弟(13:55)たちは、主イエスがファリサイ人たちから責められている状況を見、身内としての心遣いをした。しかし、主イエスは、神の国の宣教をするメシアとして、毅然とした態度で語られた。神の御心を行なう者たちこそ、信仰による神の家族である、と。もちろん、肉親は非常に大切である。しかし、それを超える、神による信仰的家族関係がある。 それは、「聖なる民に属する者、神の家族」(エフェソ2:19)であり、教会である。個々の地方教会も、全ての聖徒から成る「公同の教会」も、神の家族である。そこは、和合し共におる時に麗しく楽しく、聖霊の導きがあり、神の祝福と永遠の命の恵みがある(詩133編)。

 結論

 わたしたちは、神の恵みに対して、ファイサイ人たちのように懐疑心や拒絶的態度を持つのではなく、幼な子のように神とその恵みを信じ受け入れ、神の家族の一員となろう! 既に、主イエスを信じて神の家族とされた者は、その幸いを覚え、互いに和合し祈り助け合い、聖霊の導きの中に神の祝福を受け、教会を成長させていただこう!